片岡城跡

中世の山城「片岡城」

片岡城を築いたのは片岡国春


片岡城跡に立つ案内板
片岡城を築いたのは片岡国春。上牧町内の下牧地区から金富地区へ抜ける峠道の頂部分に中世の山城と伝えられる片岡城跡があります。片岡城は1550年ごろに片岡国春によって築かれたとされています。
下牧に片岡城を築く前は、隣町の王寺町と香芝市の境界あたりにある小高い山送迎(ひるめ)山の標高262メートルのところにありました。この頃の葛城地方は片岡氏に続いて南のほうへ順に岡・万歳・布施・倶志羅・楢原・吐田の六人が勢力を伸ばし、倶志羅氏以外の五氏はいずれも山城を築いており、片岡国春の送迎山城も地理的に良く似たところにあります。


片岡城から西側の送迎山(ひるめやま)方向を眺めたところ


左の小高い丘(農作業小屋の上)が本丸にあたる曲輪(1)畑の部分が大空掘り跡、右端の竹やぶが曲輪(2)

機能的に優れていた片岡城

片岡国春が上牧町内に新たに築いた片岡城は高さ8メートルの丘城で、他の山城とは地形的に異なり、要害性には劣りますが、片岡谷を見下ろす位置にあり、政治・経済の中枢としての機能は送迎山城より優れていたと考えられます。

片岡城は葛下川を望む上牧第二中学校から葛下川と滝川との合流点へ続く丘陵地帯に築かれた山城です。

城の西すそを流れる葛下川から見ますと48メートルの高さの位置にありますが、急な崖で迫り、当時、すそを覆うように流れていた葛下川がたびたび氾濫を繰り返し、あたり一面は湿地帯になっていました。また、城の東側にも滝川が流れそれが城の北側で葛下川と合流、三方を自然の水濠で囲まれた、この近辺では屈指の要害に適した地形になっていました。

大手は鞍部分

現在残っている地形から城の形を探ってみますと、主要な部分は最も高いところで本丸にあたる一番大きな曲輪(1)(縄張り図の(1))で東西46メートル、南北66メートルの大きさです。其のほかにも(1)の曲輪と大空堀を隔てて東側にある曲輪(2)(縄張り図の(2))、曲輪(1)の南側で、下牧地区から金富地区へ抜ける峠道で隔てたところにある曲輪(3)(縄張り図の(3))、曲輪(3)から大空堀を隔てて東側にある曲輪(4)(縄張り図(4))などが残っています。

この地形から本丸(曲輪(1))に入るには曲輪(3)から鞍部分を通って上るってくるルートが大手(城の正面口)で東側の大空堀の底から帯曲輪を通って上がってくるのが搦手(城の裏口)となります。ただ、現在残っている虎口(城の出入口の部分で城門のあったところ)をみますと、後世の破壊のせいでしょうか、大手のほうは単純な坂の上に作られた虎口ですが、搦手の方は枡形状に窪んでいて大規模です。しかし、この窪地の全体が虎口でないとも考えられます。どうやら、ここを大きく窪ませたのは北の角に天守にあたるような重要な建物があったためと思われます。

城の中心部部分の曲輪(くるわ)の現状

最も大きい曲輪(1)の周囲には、いくらかの小さな帯曲輪が作られています。このうち、南西面に続く二つの曲輪は水平ですが、他の曲輪は、緩く西側の葛下側に向かって傾いています。
曲輪(2)も規模は小さいですが、周囲に帯状の曲輪が作られています。曲輪(1)とは搦手の道で連絡できるようになっており、共に機能する出曲輪となっています。
四つの曲輪群の中で、曲輪(1)と曲輪(2)の部分が戦国初期の築城(片岡国春によって築城)で、ちなみにこの地域の小字名が「城」となっています。
曲輪(3)の高いところにはもともと峠道を見張る出曲輪が作られていた可能性もありますが、東側が大きく傾斜したままで機能を発揮するためには空堀の存在が不可欠になります。

更に、南側の空堀とそこから北側につながる帯曲輪とその上の土塁のいずれもが直線を基調に仕上げられていることを考えますとこの部分は松永の支配下になってから築かれたと考えられます。
これは、戦国時代末期にならないと現れそうにない手法です。また、曲輪(4)も曲輪(3)と共に存在価値を持つ部分ですので、この部分を松永によって築かれたと考えられます。

他の曲輪の現状

曲輪(3)の東側は伊佐那岐神社に抜ける道に向かって緩やかな斜面になっています。曲輪の東側の削り方は不十分ですが西半分はしっかりと削られています。東側の緩やかな傾斜の部分も曲輪だとしますと、東西、南北とも50メートルを超え、曲輪(1)に匹敵する規模になります。また、西側には土塁がよく残っています。この土塁の西側の崖の下も帯曲輪になっています。
その帯曲輪の南の端は道路側に回り込み伊佐那岐神社のほうから尾根を縦断する形の空堀りとなっています。この空堀りは伊佐那岐神社へ抜ける道からも観察できます。
上幅14メートル、底幅6メートルの箱堀りで曲輪(1)と曲輪(2)の大空堀とほぼ同じ規模です。形がよく似ているのは作られた時期がほぼ同じだからと考えられます。
下牧地区の集落に一番近いところにある曲輪(4)は過去に簡易水道の配水タンクの工事のために破壊されたようですが、曲輪らしい削り取られた平地になっています。
この曲輪の南側、道路に面した部分には東西に走る土塁が残っています。また北側は1,5メートルの浅い空堀になっています。形は他の堀りと同じ箱堀です。峠道に面した南側の住宅になっているところも曲輪であった可能性が高く、すると下牧地区から金富へ抜ける峠道もこの下段の曲輪の中を通っていたことになり、この曲輪の東端が木戸口(城門)になっていたことになります。

片岡城の見所 大空堀跡

曲輪(1)と曲輪(2)の間に横たわる大きな空堀が片岡城の見所にもなっていて、下牧地区から金富地区へ抜ける峠道からも大空堀の状態がよく識別できます。
大空堀は、曲輪(1)と曲輪(2)の間に挟まれた部分が箱状の堀になっていますが、もともとは南北に長く伸びていたことが地割りなどから推測できます。
北側はすぐに谷に落ちていますが、南側は現在、畑になっていて畑の形状が帯状になっていることから、その跡をたどることができます。畑の部分を抜けた空堀は一旦峠道の所でわかりにくくなっていますが、そのまま南側の谷に落ち込み、その部分でわずかに堀の形を現しています。
南北180メートル以上に渡って延々と幅広い大空掘が走るのは壮観でもあり、規模と形態から片岡城内で、最も新しい構造物と考えられます。

赤い線の部分が城内を南北に走る大空堀

写真の下半分が、後世に埋められて畑になっている大空堀部分。畑の形状から空堀の位置関係が推測できる

曲輪(1)と(2)の大空堀の底から南側の曲輪(3)方面を見る

曲輪(3)の南側に作られた空堀。右手が曲輪(3)で、土手の上に土塁がのこっている

曲輪(1)と(2)の間を南北に大空堀が走り、(3)の南に、(4)の北にも空堀が作られている

松永時代に完成した片岡城

松永時代に二つの曲輪((3)と(4))が築かれたとき、もともとあった曲輪((1)と(2))の部分にも新しい普請が加えられました。その重要な改修が南側に延びる空堀です。空堀を一本通すことによって城の機能と規模は飛躍的に増大しました。
今まで別々に機能していた曲輪(1)・(2)と曲輪(3)・(4)を共通に防御できるようになり、このときに片岡城が完成したと考えられます。この年代は永禄12年から天正5年の8年間と限定できます。

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