第一章 あしひきの

片岡城 笹ゆり姫物語

第一章 あしひきの

初夏の風が貴船(きふね)の社の木立を通り抜け竹林をそよがせている。楽士の奏でる音色に合わせて一人神楽を舞う幼い巫女は、ササユリを両手にかざし得も言われぬ愛らしさを辺りに漂わせていた。
「あの子は誰だろう」
景頼が、その姫を初めて心に留めたのは、まばゆい光が射し込む御祭礼の日であった。
気恥ずかしそうなその声は雅楽の音にかき消されてしまいそう。
「若さま、景頼さま」
従者青井数馬の声に驚く景頼。
「そろそろ城に戻りましょう」
「えっ、もう」
「はい、そろそろ戻らねば」
仕方なく神社の長い石段を降りて行く。
ちょうど一の鳥居に差しかかった時、
「どうかなさいましたか、若さま」
「いや、別に」
「どこかお体の具合でも」
景頼の心を見透かしたように青井はなおも、
「お足許が覚束のうございますよ」
「そうか?」
そして小さな声で、
「あの子は誰だろう」
「若さま、片岡城の佐葦姫さまでございますよ」
「そ、そうか 佐葦姫か。そうだったのか」
と嬉しそうに石段を駆け下りて行った。
永禄七年、木辻城の嫡男、景頼は数えて十一歳。片岡城の一人娘佐葦姫はまだ十歳であった。
それから五年、歳月は幼い二人を美しい姫と逞しい若者へと変えていった。
ホーホケキョ
ポカポカと心地良い陽だまりに桃の香りが漂う浄安院。
「佐葦姫さま、ご機嫌麗しく。本日はようこそ浄安院においでくださいました」
山門に立つ寂光門跡は、佐葦姫とすすきを丁寧に出迎えた。
「あら、笛の音が」
「ええ、木辻城の景頼さまもお越しになられてますよ」
「えっ、木辻城の若さまもおいでなのですか」すすきは声をあげた。
「あのー・・・・・」
「どうかなさいました姫さま、頬が赤こうございますよ。ね、すすき殿。ではごゆるりとお寛ぎくださいませ」
と楽しそうに庫裡へ案内した。
しばし姫との語らいのあと寂光は別室の景頼を訪ねた。
「景頼さま」
「おお、ご門跡」
「今日はいいご陽気でございますし、いかがでございましょう。ちちぶの湖で舟遊びでも」
「おお、それはよいな」
「では早速お支度を・・・・・・・・・佐葦姫さまもお待ちかねでございます」
「そうか。何! 佐葦姫さまとな」
突然のことにうろたえる景頼。
「さ、姫さまこちらへ」
衣ずれの音も淑(しと)やかに。
「景頼さまご機嫌麗しく」
姫の美しさに唖然とする景頼を横目に、
「さあまいりましょうか」と寂光。
事の成り行きに戸惑いながらも、木漏れ日の中を二人より少し離れて歩いて行く景頼。
すすきは寂光の指図で浄安院に残り三人の後ろ姿を見送った。
やがて岸辺に辿り着いた三人に寺男の甚平が大声で叫びながら駆けて来た。
「ご門跡さま、ご門跡さま。院に急用が参ってございます。すぐにお戻りくださいませ」
「おやおや、これから舟遊びを楽しもうという時に、何の因果でしょう、ね、景頼さま」
「ん?」
「お聞きのとおりでございます」
「ん?」
「あとはお願いいたします」
「ん?」
「佐葦姫さまのこと」
「佐葦姫さ、えっ!」
大人びて見えてもまだ十六歳。きりりとした若武者は巣立ちの燕のように戸惑いを隠せない。
「姫さま、わたくしは一足先に、失礼いたします」
「あの、御門跡さま」
「あとのことは景頼さまにお頼みしておきましたゆえごゆるりと」
そう言い残し、二人を後にした寂光は、
「たいそうお上手に出来ましたよ」
と甚平に微笑みかけた。
その日以来、佐葦姫の心には
湖で過ごした景頼との至福の時が色褪せることなく、むしろ鮮明に残っていった。
やがて香滝沢に蛍が舞いはじめた。
近頃、物憂げな佐葦姫を心配したすすきは、
「姫さま、伊佐那岐(いざなぎ)の杜のササユリもそろそろ見頃かと、明日の朝、花摘みにまいりましょうか。この月明かりでは明日もきっと良いお天気です。お供いたしましょう」
「ええ、そうね。そうしましょう」
沢から登ってきた蛍が行灯を避けるように姫の脇を抜けていった。
「すすき、先に行きますよ」
「姫さまそんなにお急ぎにならなくともユリの花はどこへもまいりませぬ」
戯れの言葉が響く尾根道を、この時期には珍しく、片岡谷から流れてきた霧が朝の光を包み、神々しいまでの光景を作り出していた。
山懐に漂う霧は谷間辺りで濃くなり、周りの木立を墨絵ぼかしのように映し出している。時折キキッと雉の鳴き声の他は、二人の足音しか聞こえてこない静かな朝。
ゆったりと山肌を這う霧にのって、谷渡りの澄んだ竹笛の音がかすかに届くのを耳にした佐葦は、
「この音色は景頼さま。きっと近くにおいでのはず」
と、霧の中へ踏み入れていく。
「おや、こんな早くに」
景頼が笛を止めた時、
「景頼さまご機嫌麗しく佐葦でございます。どうぞそのままお続けくださいませ」
佐葦の言葉に促された景頼の竹笛からは再び澄んだ音がこぼれ、瓔珞山(ようらくやま)の谷間に染み渡っていった。
笛を奏でる景頼と寄り添う佐葦の姿は行く末をも約束した二人に見え、すすきは静かに城へと戻って行った。
やがて夏が過ぎ、秋も終え、雪も溶けて山桜の頃、瓔珞山の山裾は薄桃色に装いを変え始める。
この時期の郷の人々は花を愛で大いに詠う。
「あしひきの 山の間照らす 桜花
この春雨に 散り行かむかも」
この地の歌を楽しみ酒を酌み交わし、これから始まる田作りへの鋭気を養う時期でもある。